「支那そば」「中華そば」として渡って来たのが「ラーメン」に進化したドラマが

美濃和紙の里会館のページより引用
 
奈良時代の戸籍用紙が美濃和紙であったという記録が「正倉院文書」に残っていることから、美濃和紙の始まりは、奈良時代だと考えられています。
室町時代になると、地元の権力者である土岐氏によって六斉市(ろくさいいち)と呼ばれた紙市場が開かれたことで、美濃和紙は京都、大阪、伊勢方面に出荷され、広くその名が知られるようになりました。
美濃における最初の紙は、現存するものとしては大宝2年(702)の戸籍用紙で、美濃、筑前、豊前のものが正倉院に残されています。
コウゾを原料として溜め漉き法にてつくられた紙で、美濃の紙は「特に優れたでき映えである」と評されています。 
江戸時代になって生産量もますます増大し、近江の商人らにより美濃紙は中央に進出するようになります。
書院紙として代表的な「美濃紙」は、その優れた抄紙技術に支えられて、全国数ある障子紙の中でも折紙付きとなり、現在の「美濃紙」ブランドの根源となっているものです。
その後、技術の発展、生活様式の変化等により、障子紙、傘紙、謄写版原紙から、手漉き和紙の特徴を活かした工芸品的な多種類の紙を用途に応じて生産しています。 
生産者数は、産地での最盛期は1918年で生産者戸数4,768戸、従業者数17,782人を示しましたが、現在は六十余名、三十数戸まで減少してしまいました。
美濃和紙業界の振興、地域活性化大作の一環として、美濃市においては平成6年に地元和紙の産地の蕨生地区に美濃和紙の里会館を設立しました。
これは単に「美濃手漉き和紙」のみの会館ではなく、世界へ向けた幅広い和紙文化、情報の発信基地として活躍することが期待されています。
 
 
 
ってな訳で美濃和紙の事を勉強する事になり
 
目指すは「美濃和紙の里会館」!!
  
 
行って来ました!
 
美濃和紙の里会館
 
 
そこで沢山の和紙を見て気付きました!
 
薄い!
薄過ぎる!!
 
そしてキレイ
紙自体の表面がとっても綺麗だったのです
 
そして館内の方に話を聞くと1400年前に大陸から伝わった技術を日本の几帳面さでココ迄のクオリティーにしたそうでした
 
んで僕の持ってた和紙を見せたら
 
 
「コレは美濃和紙じゃないどころか…
 
国産品じゃないね。
 
どうせアジアのどっかの紙やろ、荒くてボコボコしとるで
 
日本以外はほとんどが溜め漉きやで」
 
 
僕が和紙と思い込んでいたあの「何とも言えない暖かみの…」とは
 
紙業界のB級品かそれ以下の紙だったのです
 
 
 
「支那そば」「中華そば」として渡って来たのが「ラーメン」に進化した様に
 
ココにも壮絶なドラマがあったんですね
 
 
 
 
次の瞬間
 
けみ  「弟子にして下さい!」
 
会館の方「俺はココの事務局長やで和紙は漉けんわ」
 
け み 「じっじ、じ… 事務局長!?」
 
事務局長「うん」
 
け み 「そこを何とかお願いします」
 
事務局長「人の話聞いとるんか」
 
け み 「日本の未来がかかってるんです」
 
事務局長「大きく出たなw。よし!気にいった!!」
 
 
よく分からないやり取りの末
美濃和紙の里会館が企画してる
「5日間の手すき体験講座」に入る事となりました。
 

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